パイプラインの国のアリス

長い長い井戸を落ちていく間、アリスはいろいろなことを考えました。(これは本当に井戸かしら。井戸にしては長いわね。ひょっとしたらトンネル?でも、トンネルと井戸は何が違うのかしら)。佐野量子が井戸の中に閉じ込められている姿やトンネルを潜り抜ける姿を想像していると、下のほうに何か置いているのが見えました。(あら、オレンジ・マーマレードかしら)ひょいと手を伸ばしてつかむとアップル・ジャムでした。(なんだ、つまんない。私はアップルは嫌いよ。オレンジ・マーマレードだったらよかったのに)。がっかりしたアリスはアップル・ジャムのびんを戻してしまいました。そして、とうとう井戸の底にどすんと落ちました。その井戸の底は小さな部屋の暖炉になっており、藁がしいてありました。

アリス「あら、不思議。どうして井戸の底に藁が敷いてあるのかしら。でも何もなかったら死んでいたわね。きっと物語を続けるために強いて敷いたのね」。アリスがべたな駄洒落をつぶやいていると部屋の端から声が聞こえました。

うさぎ「やあやあ、間に合ってよかった。さ、急いで急いで。工場見学の時間です」

アリス「まぁ、なんて事。うさぎがしゃべっているわ。それに工場見学って何の事かしら」

うさぎ「さ、急いで急いで。今日は特別な日です。特別な日に特別な方を特別にご招待。わが国が誇る最新の工場をお見せしましょう」。それを聞いてアリスはまなじりを吊り上げました。

アリス「最新の工場ですって? 生まれも育ちも大英帝国の私に工場の何を見せるっていうの。いいわ、見せてもらおうじゃない」。そういうと、文字通り脱兎のごとく駆け出したうさぎに続いてアリスも部屋を飛び出しました。

第一の工場

うさぎ「さ、どうぞどうぞ。ここがわが国が誇る最新の自動車工場です」。工場の中にたくさんの人がいます。本当は小さな工場なのですが、あまり工場に詳しくないアリスには大きな工場に見えました。向こうの壁には赤い横断幕に大きな黄色い文字で「真心をこめて。丁寧に!」と書いてあります。でも、とても変な工場なのです。案内された工場の中を見渡して、アリスはあきれてしまいました。

アリス「まぁ何てことでしょう!こんなに広いのに自動車を1台しか作っていないなんて。きっととても人気のない自動車に違いないわ」。アリスがそう言ったのも不思議はありません。とても広い(とアリスが思っている)工場の中にはぽつんと自動車が一台あるだけです。その周りにいる人は忙しそうに働いていますが、他の人たちはひまそうにしています。

うさぎ「ここはわが国自慢の工場。品質は一等。真心を込めて製品を作っています」。

アリス「でもどうして自動車を一台しかつくらないの?もっと作ればいいのに」。

うさぎ「いえいえ、これがこの工場のフル回転。大急ぎでエンジンを取り付け、大急ぎで椅子を取り付け、大急ぎでボディーを取り付け、大急ぎでペンキを塗っているのです」。

アリス「でもここでもあそこでも、人が怠けているわ」。

うさぎ「あれは自分の順番がやってくるのを待っているのです。この工場は一台の自動車に精魂込めるのがモットーです。無駄なことはせず、自分の仕事をきちんとします。おかげでこの工場は大変な省エネ。二酸化炭素排気量も京都議定書をやすやすとクリアしています」。

アリス「まぁ、なんとなくごまかされた気分だわ。でもあまり感心しないわね。大英帝国の自動車工場に比べたらぱっとしないわ」。工場のことを知らないくせに、アリスは負けず嫌いです。

うさぎ「なんですって! あなたときたらこの工場のすばらしさがわからない。いいでしょう。それでは取って置きの工場をお見せしましょう。本当はこれからお見せするのは我々の秘密の工場。でも、今日は特別の日に特別なお方がお見えになったのですから、特別にお見せしましょう」。うさぎは勝手にまくし立てると、今度もぴょんぴょんとその場から駆け出しました。

第二の工場

うさぎ「さ、どうぞどうぞ。ここがわが国が誇る最新の自動車工場です。」

アリス「まぁ、なんだかさっきも同じせりふを聞いた気がするわ。まさか使いまわしじゃないでしょうね」。そういってこっそりうさぎの横顔を覗き込みましたが、動じる気配がないのであきらめて工場を見渡しました。この工場も小さな工場ですがアリスには大きく見えます。大勢の人がいるのはさっきの工場と同じですが、今度は工場の中に自動車が並んでいてその周りにそれぞれ人がいます。たくさん自動車があるせいか、工場の中はすごく熱くてアリスはすぐに汗をかいてしまいました。

うさぎ「どうですか、どうですか。これこそ自慢の工場。これこそわが国の誇り。この工場では自動車を作り始めると、その自動車が完成する前に次の自動車を作り始めます。自動車工がやるのは単純な作業ばかり。椅子をすえつける人は一日中車の椅子をすえつけるだけ。ここでは自動車工の間を自動車の部品が進んでいきます。するとあら不思議、いつのまにか自動車が出来上がっていきます。すごいでしょう。すごいでしょう」

アリス「そうね、さっきの工場とは大違いね」。本当は目の前の工場が立てる大きな音にびっくりしていたのですが、アリスはそれを隠して努めて冷静にうさぎに応えました。一番向こうの壁にはやはり大きな赤い横断幕に大きな黄色い時で「それ働け、やれ働け」と書いてあります。

うさぎ「この工場は30分に1台自動車を出荷しています」

アリス「30分に1台ですって!まぁ、私を何も知らない女の子だと思って馬鹿にして。そんなに早く自動車を作れるはずがないわ」。アリスが怒ったのも無理はありません。さっきからずっと見ていますが、右の方から入ってきた自動車のシャーシには、まだエンジンも乗っていません。とても30分以内に完成させるのは無理です。

うさぎ「いえいえ、お嬢様。馬鹿にするなんてとんでもありません。あなたは特別な日の特別なお方。特別に説明して差し上げましょう」

アリス「ええ、お願い」。やっぱり馬鹿にされているような気がしましたが、アリスはうさぎの説明を聴くことにしました。

うさぎ「この工場では1つの工程が終わると自動車はラインを次に進みます。この特別な工場では1工程の作業をする場所をステージ、ラインのことをパイプラインと呼んでいます」。アリスは心の中で(なんだか変な工場ね)と思いましたが、黙っていました。

うさぎ「自動車を作るには6工程かかりますので、6ステージのパイプラインでございます。1ステージに30分、これが6ステージございますので全部で180分かけて1台の自動車を作ります。しかしながら、働き者の工員たちのこと、次々に隣のステージに製品を渡しますので出口で見ておりますと、30分に1台自動車が出てまいるわけです。この工場の工員はみな働き者。あまりによく働くので二酸化炭素排出量は京都議定書の協定水準を守れそうにありません。おっとこれは内緒の話です」

アリス「まぁ、おどろいたわ。頭がいいのね」。最後の話がよくわかりませんでしたが、そこは知らない顔を通しました。

うさぎ「ありがとうございます。これが私ども最新のパイプライン式工場。さて、あちらをご覧ください。あの見るからにのろまそうなだらしない工員です。あの口をあけて仕事をしている男がこの工場一番ののろまでございます。彼の仕事はドアにペンキを塗るだけだというのに30分もかけて仕事をします」。アリスは(あら、あたしだったらもっと時間がかかるかもしれないわ)と思いましたが、のろまと思われるのが嫌なので黙っていました。

うさぎ「彼こそはのろま。かれがのろまなばっかりに、仕事を15分でこなす工員も待ちぼうけを食らっています。この工場では1ステージにかける時間をパイプライン・ピッチと呼んでおりますが、そのピッチを決めるのはあののろま。あののろまこそ工場一の問題社員。人は彼をクリティカル・パスと呼んでいます」

アリス「まぁ、あの方がクリティカル・パスなのね」。アリスは感心したようにつぶやきました。最初はかわいそうだと思っていたアリスも、うさぎがあまりぼろくそにけなすのを聞いてなんとなく男がのろまに見えてきました。

うさぎ「あの男さえもっと手際よく仕事をすればもっともっと生産性があがるものを、残念な話です」。と、そう語っているうさぎはちっとも残念そうではありません。

アリス「他に生産性をあげる方法はないのかしら。もっと手分けしてあげるとか」

うさぎ「これはこれは。おやおやおや。さすがに特別な日の特別なお方。ご明察どおりでございます。おっしゃるとおり、手分けして仕事を細かくすればパイプライン・ピッチを短くすることができます。6ステージのパイプラインを12ステージにすれば30分に1台を18分に1台に変える事もできますです。」

アリス「あら、15分に1台じゃないの?それによくなるとわかっているならどうしてそうしないの?」

うさぎ「いやいやいや、最初のご質問はともかく、二つ目のご質問にはまもなく答えをご覧に入れることができますようです。どうして私どもがスーパーパイプライン化しないのか、その目でとくとご覧ください」。アリスは(まぁ、気をもたせるのね)と思いましたが、それでもうさぎがいうとおり、何かがおきるのだろうと思って待っていました。しかし、いつまでたっても何もおきません。30分以上も待って、もうこれ以上待てないと文句をいおうとした時です。

うさぎ「ほら、はじまりますよ」。そういわれて工場をもう一度見ると、端のほうから一人の男が歩いてきて、大きな鐘をじゃらんじゃらんと鳴らしました。

アリス「あら、休憩? あっなんて事を!」。びっくりして声をあげたアリスの目の前では、工員が自分のステージにある半完成の自動車をがらがらと大きな穴に放り込んでいます。「いったい何をしているの?」

うさぎ「パイプライン・フラッシュです。この工場では2品種の自動車を生産しています。10日に一回、こうして車種を切り替えるときに、各ステージにある半完成の自動車を捨てるのです。捨てないで済むのは、最後のステージの完成品と、最初のステージの手付かずの部品だけです。つまり、4ステージの作業が無駄になります」

アリス「でも、ああ、なんてもったいないんでしょう。一所懸命作ったのにもったいないわ」

うさぎ「仕方がないのです。前の自動車が残っていると正しい製品を作れませんので。おわかりかと思いますが、パイプラインの段数が増えればそれだけフラッシュが起きたときに捨てなければならない自動車の数が大きくなります。」

アリス「ああ、なんてことでしょう」。呆然と見守るアリスの前で、即座に次の車種の組み立てが始まりました。でも、始まったのは最初のステージだけで、残りのステージは何もしていません。やがて次のステージに作業が進みましたが、残りの4ステージはやはり手持ち無沙汰にしています。

うさぎ「パイプライン化した工場の本当の問題がこれです。一旦フラッシュが起きるとパイプラインを再度フィルするのに時間がかかるのです。これが私たちがスーパーパイプライン化を思いとどまった理由です」

アリス「はぁ、驚いたわ。でもやっぱりこれはいけないことよ。きっといい方法があるはずよ。だって大英帝国の工場でこんな無駄なことをしているなんて話はきいたことないわ」

うさぎ「おやおや、また大英帝国ですか」。さすがのうさぎもアリスの大英帝国至上主義にうんざりしたようです。「しかたがありません。あなたは特別な日の特別なお客様です。特別に、秘中の秘、我々の最新の中の最新の工場をお見せしましょう」。そういうとまたもやうさぎは駆け出しました。

第三の工場

うさぎ「さ、どうぞどうぞ。ここがわが国が誇る最新の自動車工場です」。さすがに同じせりふを三度聞かされて、うさんくさそうな目で見ているアリスを無視しながらうさぎが続けます。「これこそが最新。これこそが秘密」

アリス「あら、さっきと変わらないわ」。アリスがそういったのも不思議はありません。さっきとまったく同じ風景の工場で、違うのは垂れ幕に「無駄を無くそう。オイルの一滴は血の一滴」と書いてあることくらいです。

うさぎ「優れた工場は改良してもその血筋を残すものです。ご安心ください。もうすぐ違いがわかります」。そういい終わらないうちに、またもや人が歩いてきてがらんがらんと鐘を鳴らしました。すると、やはり工員がいっせいに自動車を穴に捨て始めたのですが…、本当に穴に捨てたのは二人だけでした。出口に近い三人はそのまま作業を続けています。

うさぎ「あれは我々が遅延分岐と呼んでいる方式です。車種を切り替えるときに、切り替え後、パイプラインに残っている最終ステージの前の2ステージ分の仕事だけ残してフラッシュを行います。最後ステージははじめから完成品ですし、最初のステージは手をつける前に切り替えますので、これで無駄を2ステージに減らすことができます。」

アリス「確かに無駄は減ったけど…」。アリスはまだ納得がいきません。なにしろ目の前で2ステージ分の半完成自動車が捨てられたのです。

うさぎ「どうして切り替え後4ステージ分の仕事をやらないのか不思議なのでしょう。簡単な話です。そんなに多くやっても利益は少ないのです。なにしろこんな切り替えは10日に1回だけです。しかも、切り替え後にもステージで作業できるようにするには、工程のスケジュールに工夫が必要なのです。2ステージくらいならともかく、4ステージ作業させるような工夫はとても大変です。10日に一度のためにそんなことをしたくないのが本音です。」

教訓

アリスは、うさぎの話がだんだんわからなくなってきました。熱がこもるにつれ、うさぎは物語口調から理系オタク口調になってきています。(今日はたくさん工場を見たわ。それにうさぎの後について走ってばかり。なんだか疲れてきたわね)そう思いながら、まぶたが閉じそうになるのを我慢していました。うさぎが続きを話しているのがなんだか遠くに感じられます。

うさぎ「ですから分岐が起きるかどうか予測する手法もあるのですが、その場合予測を静的に行うか動的に行うかで…おや、お疲れのようで」。さんざんしゃべった後、やっとうさぎはアリスの様子に気づいてくれました。「これはこれは失礼いたしました。どうもあちこち引きずりまわしてしまったのがいけなかったようです。ささ、こちらにどうぞ。椅子に腰掛けるとよいでしょう。もしよければ、そちらの長椅子で横になっていただいても結構です。ふかふかした気持ちのいい枕をお持ちしましょう」

アリス「ありがとう。とってもためになるお話を聞けたわ」

うさぎ「そう言っていただけると光栄です」

アリス「今日は工場見学だったから、なにか教訓があるはずよね。今日の見学から得た教訓は…教訓は…」。疲れきって半分眠りながら同じ言葉を繰り返すアリスに、うさぎがそっと言い添えました。

うさぎ「6ステージのパイプライン・アーキテクチャーを持つADSP-2191は遅延分岐機構を持っています。そこには2命令分の実行スロットがあるということですよ。」

「教訓にしては長すぎるわね」。そうつぶやくと、疲れきったアリスは寝てしまいました。

⇒次は条件付NOP命令

2191空挺団 | プログラム | EZ-KIT | こぼれ話 | アーキテクチャー | 命令 | レジスタ | DSP掲示板 | FAQ |